賃貸借契約の準備を進めていると、「契約書を公正証書にしておいた方が安心ではないか」という話が出ることがあります。特に、長期間にわたる契約や賃料の高い事業用物件では、将来のトラブルに備えて検討する場面もあるでしょう。
公正証書は、公証人が作成する公文書です。契約内容を明確にし、一定の条件を満たせば、賃料などの金銭債権について判決を得るための訴訟を経ずに強制執行を申し立てられるという特徴があります。
ただし、公正証書にすれば、契約に関する問題がすべて解決するわけではありません。中でも大切なのは、賃料の回収と、建物を明け渡してもらう手続きは別であるという点です。
今回は、公正証書による賃貸借契約の効力、利用を検討したい場面、作成の流れや費用について、賃貸管理の実務に沿って解説します。
- 公正証書は、契約内容や当事者の意思を明確に残すために役立つ。
- 一定の金銭債務について、強制執行認諾の文言を入れることで、訴訟を経ずに強制執行を申し立てられる場合がある。
- 公正証書だけを根拠として、建物の明渡しを強制執行することはできない。
- 事業用定期借地権の設定契約では、公正証書による契約が必要になる。

賃貸借契約を公正証書にすると、どのような効力がある?
契約内容を明確にし、証拠として残せる
通常の賃貸借契約書は、貸主と借主が契約内容に合意して作成する私文書です。これに対して、公正証書は、公証人が当事者の意思や契約内容を確認して作成する公文書となります。
公証人が関与することで、誰が、どのような内容の契約を結んだのかを明確に残しやすくなります。「そのような契約書は作っていない」「記載内容に合意していない」といった争いに備える意味でも、証拠としての信頼性が高い文書です。
もっとも、公正証書にすれば、契約の有効性や条項の解釈について一切争えなくなるわけではありません。強行法規に反する特約などが、公正証書にしたことによって有効になるわけでもない点は押さえておきましょう。
条件を満たせば、賃料などの金銭債権について強制執行に進める
借主が家賃を滞納しても、貸主が通常の賃貸借契約書を裁判所に持ち込むだけで、預金などを差し押さえてもらえるわけではありません。原則として、まず裁判などの手続きを通じて、強制執行の根拠となる文書を得る必要があります。
例えば、借主に滞納賃料の支払いを命じる判決などが、これに当たります。このような「強制執行を申し立てるための法的な根拠となるもの」を、債務名義といいます。
そして公正証書は、一定の条件を満たせば、この債務名義となります。そのため、対象となる賃料などの支払いがなかった場合に、改めて支払いを命じる判決を得ずに、強制執行の手続きへ進めるのです。
なお、債務名義とするためには、支払う金額や支払期日などを明確にしたうえで、支払義務を負う人が「支払いをしないときは、直ちに強制執行を受けてもよい」と認める旨を公正証書に記載する必要があります。この記載を、一般に「強制執行認諾文言」と呼びます。
ただし、「契約違反によって生じた損害はすべて支払う」といった記載だけで、後から請求する費用のすべてが強制執行の対象になるわけではありません。特に、退去後に金額が決まる原状回復費用などは、賃料と同じようには扱えないため、対象となる債務の範囲を公証人に確認することが必要です。
公正証書があっても、回収できるとは限らない
公正証書のメリットは、一定の金銭債権について、強制執行に進むための手続きを短縮できる点にあります。しかし、借主の支払能力そのものを高める制度ではありません。
差押えの対象となる預金や給与などがなければ、十分に回収できないこともあります。財産の把握や差押えの申立てには、別途の手間や費用がかかる場合もあるでしょう。
そのため、公正証書は、入居審査、敷金、保証会社などと合わせて検討する備えの一つです。公正証書があることだけを理由に、支払能力の確認や日々の入金管理を省略しないようにしましょう。
公正証書だけでは、建物の明渡しを強制執行できない
賃料の支払いと建物の明渡しは、手続きを分けて考える
賃貸借契約で特に誤解しやすいのが、「公正証書にしておけば、家賃を滞納した借主をすぐに退去させられる」という点です。
公正証書に基づく強制執行の対象には制限があり、建物の明渡しは、公正証書だけを根拠として強制執行することができません。「契約終了時には直ちに明け渡す」と記載していても、この点は変わりません。
借主が任意に退去しない場合には、契約終了の有効性などを確認したうえで、建物明渡請求訴訟や裁判上の和解などにより、明渡しについて強制執行できる債務名義を得る必要があります。金銭の回収と明渡しの両方が問題になっている場合は、どの手続きを組み合わせるか、弁護士に相談するとよいでしょう。
公正証書があっても、勝手な荷物の搬出や鍵の交換はできない
公正証書に明渡しの約束が記載されていても、それを理由に貸主や管理会社が借主の荷物を勝手に搬出・処分したり、鍵を交換して出入りできなくしたりすることはできません。
借主が任意の明渡しに応じない場合は、裁判などの手続きによって、明渡しの強制執行に必要な判決等を得る必要があります。公正証書に約束を残すことと、その約束を強制的に実現できることは、分けて考えましょう。
公正証書が必要な契約と、利用を検討したい場面
事業用定期借地権の設定契約では、公正証書が必要
公正証書の利用が、当事者の判断に任されていない契約もあります。代表的なものが、借地借家法第23条に定める事業用定期借地権の設定契約です。
これは、専ら事業用の建物を所有する目的で土地を借りる制度であり、居住用の建物は対象になりません。この契約は、公正証書によって行う必要があります。
ただし、「事業のために借りる土地」なら、すべてこの制度になるわけではありません。建物の所有を目的としない駐車場や資材置き場などは、契約の実態に応じて区別する必要があります。
制度の違いについては、定期借地権の種類と契約上の注意点、土地の貸し方については、土地の賃貸借契約と借地権の違いも参考にしてください。
定期建物賃貸借は、公正証書が必須ではない
いわゆる「定期借家契約」である定期建物賃貸借は、事業用定期借地権とは異なり、公正証書にする必要はありません。法令上の要件を満たせば、公正証書以外の書面や電磁的記録によっても契約できます。
ただし、公正証書で契約する場合でも、更新がなく期間満了により契約が終了することについて、貸主が契約前に所定の説明を行うなど、定期建物賃貸借としての要件を満たす必要があります。公正証書の作成によって、事前説明などを省略できるわけではありません。
長期契約や、滞納賃料の分割払いを約束する場面
通常の建物賃貸借契約でも、契約期間が長い場合や金銭の支払条件が複雑な場合には、公正証書の利用を検討する余地があります。ただし、すべての住宅賃貸借契約を公正証書にする必要があるわけではなく、費用や手間に見合う効果があるかを判断することになります。
また、契約開始時だけでなく、滞納が発生した後に、未払金の額と分割払いの条件を公正証書にする方法も考えられます。
例えば、滞納賃料が30万円あることを双方で確認し、毎月の賃料とは別に5万円ずつ支払うと約束する場面です。この場合は、対象となる滞納期間、残額、各回の支払期日、支払いが遅れた場合の扱いなどを整理して相談します。
ただし、貸主だけの希望で、借主に支払義務や強制執行認諾を負わせることはできません。当事者の合意が必要であり、金額や責任について争いがある場合は、公正証書の作成に先立って解決方法を検討することになります。
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賃貸借契約を公正証書にする流れ
1.当事者間で契約条件と利用目的を整理する
最初に、貸主と借主の間で、物件、用途、契約期間、賃料、敷金、修繕、契約終了時の扱いなどを整理します。すでに契約書がある場合には、その契約との関係も確認しましょう。
公正証書を作成する目的も重要です。法律上必要だから作成するのか、賃料の支払いに備えるのか、すでに発生した滞納金の返済条件を残すのかによって、確認する内容が変わります。
2.公証役場へ相談し、資料を提出する
契約書案や条件を整理したメモを用意して、公証役場へ事前に相談します。いきなり当事者全員で出向くのではなく、まずは連絡して、相談方法や必要資料、作成までの流れを確認すると進めやすくなります。
公証人は、当事者の意思や契約内容を確認し、公正証書として作成できる内容かを検討します。条項の書き方について相談できますが、一方の当事者だけの代理人として、相手との条件交渉を行う立場ではありません。
すでに紛争が生じている場合や、自分の立場で契約条件を検討してほしい場合には、弁護士への相談も必要になります。
3.本人確認書類や物件資料などを準備する
必要書類は、当事者が個人か法人か、本人が手続きするか代理人を利用するかなどによって異なります。一般には、次のような資料を求められることがあります。
- 契約書案や、合意した条件を整理した資料。
- 運転免許証などの本人確認資料、または印鑑登録証明書と実印など、指定された本人確認のための書類。
- 法人の場合は、登記事項証明書や代表者の資格・権限を確認する資料。
- 土地・建物の登記事項証明書、図面などの物件資料。
- 代理人が手続きする場合は、委任状や代理権を確認する資料。
- 滞納金の支払いを定める場合は、賃料台帳や入金履歴など。
すべてのケースで同じ資料が必要になるわけではありません。書類の有効期間や、委任状に記載すべき内容も含めて、依頼する公証役場の案内に沿って準備しましょう。
4.原案と費用を確認して、公正証書を作成する
公証人が作成した原案を確認し、金額、支払期日、契約期間、物件の表示などに間違いがないかをチェックします。強制執行認諾の対象となる債務の範囲も、この段階で確認しておくことが大切です。
内容が固まったら、案内された方法で最終確認を行い、公正証書を作成します。必要な代理権を備えた代理人による手続きが可能な場合もあり、必ず当事者本人がそろって二度訪問しなければならないわけではありません。
また、要件を満たし、公証人が相当と認める場合には、ウェブ会議を利用したリモート方式も選択肢となります。利用したい場合は、機器や本人確認方法などの準備が必要になるため、早めに相談しましょう。
公正証書の作成費用と、貸主・借主の負担
作成費用は、賃料や契約期間などによって変わる
公正証書の作成手数料は、公証人手数料令に基づいて計算されます。賃貸借契約では、賃料や契約期間などが計算に関係するため、一律に「いくらで作れる」とは言い切れません。
日本公証人連合会の案内では、月額賃料20万円、契約期間3年の建物賃貸借契約の場合、3年分の賃料の2倍である1,440万円を目的価額として、基本となる作成手数料は2万6,000円とされています。
ただし、この金額が支払総額とは限りません。証書の枚数、正本等の交付、送達などによる費用が加わる場合があり、契約内容によっても計算が変わるため、事前に見積りを確認してください。
費用負担は、作成を依頼する前に合意しておく
公正証書の作成費用を誰が負担するかについては、契約の経緯や利用目的も踏まえて、当事者間で決めておきます。「貸主が希望したのだから貸主負担」「借主に関することだから借主負担」と、当然のように決めつけない方がよいでしょう。
貸主負担、折半などの割合に加え、書類の取得費用や、代理人・専門家へ依頼する場合の報酬をどうするかも整理します。契約締結の直前になって費用を提示すると、条件の行き違いにつながることがあります。
支払いがない場合も、強制執行には別の手続きが必要
強制執行認諾文言のある公正証書を作成していても、滞納が発生しただけで自動的に預金などが差し押さえられるわけではありません。公証役場や裁判所で、必要な手続きを行うことになります。
一般には、対象となる支払義務と未払額を確認したうえで、公証役場での執行文の付与や送達に関する手続きを整え、差し押さえる財産に応じた申立てへ進みます。必要となる書類や手続きは、証書の作成形式や事案に応じて確認してください。
また、借主からすでに支払いを受けた金額があれば、それを差し引かなければなりません。公正証書に記載された当初の金額を、そのまま請求し続けられるわけではないため、入金記録を正確に残しておくことが重要です。
契約書、公正証書、賃料台帳、入金履歴、督促の記録などを関連付けて保管しておきましょう。賃料の変更や返済条件の見直しをした場合には、既存の公正証書に基づいてどこまで強制執行できるかも含め、公証人や弁護士へ確認することが大切です。
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まとめ|公正証書は、目的と効力の範囲を理解して活用する
公正証書による賃貸借契約は、契約内容を明確に残し、一定の金銭債権について強制執行に備えるために役立つ方法です。事業用定期借地権の設定契約のように、法律上、公正証書が必要な場合もあります。
一方、公正証書にすれば必ず滞納賃料を回収できるわけではなく、建物の明渡しを公正証書だけで強制執行することもできません。契約内容の確認、支払能力の審査、日々の入金管理を合わせて行うことが大切です。
利用を検討する際は、「何を公正証書に残したいのか」「どの支払義務について強制執行に備えるのか」を整理し、公証役場へ相談してみましょう。明渡しや契約解除について争いがある場合には、弁護士への相談も含めて進めてください。
なお、本記事は公正証書と賃貸借契約に関する一般的な解説です。個別の契約の有効性や強制執行の可否は、契約内容や具体的な事情によって異なります。







