賃貸物件の管理をしていると、実にさまざまなトラブルに遭遇します。家賃滞納や騒音、設備故障、退去時の原状回復などは比較的よくある話ですが、長く不動産の仕事をしていると、時には「こんなことまで起こるのか」と驚かされる事件に出会うこともあります。
今回ご紹介するのは、私が実際に経験した「賃貸借契約書が書き換えられていた疑いのある事件」です。
入居者から提示された契約書には、なんと「敷金10か月・60万円」との記載がありました。ところが、後になって旧管理会社から発見された契約書の控えには、まったく異なる内容が記載されていたのです。
- 賃貸借契約書の偽造・変造は、私文書偽造等の問題となる可能性がある
- 契約書の内容に疑問があっても、その場で「偽造だ」と決めつけない
- 貸主・借主だけでなく、旧管理会社や仲介会社の控えが重要な確認資料になる
- 契約書だけでなく、敷金などの入金記録も確認する
- 管理会社にとって契約関係書類の保存は非常に重要
現場を知るから、本当に役立つ。
今回は、賃貸借契約書の偽造・変造に関する法律上の基本的な考え方とともに、実際に私がどのように事実関係を確認し、退去精算まで進めたのかをご紹介します。

賃貸借契約書を偽造・変造するとどうなる?
まず、賃貸借契約書の偽造・変造について基本的なところを確認しておきましょう。賃貸借契約書は、賃料や契約期間、敷金、解約条件など、貸主と借主双方の権利・義務を定める重要な文書です。
他人名義の署名や印章などを使用して契約書を作成したり、真正に作成された契約書を権限なく書き換えたりした場合には、刑法上の「私文書偽造等」の問題となる可能性があります。
刑法第159条では、行使する目的で他人の印章や署名等を使用して権利・義務などに関する文書を偽造する行為や、他人が押印・署名した文書を変造する行為などについて罰則が定められています。
一般に、権限なく他人名義の文書を作成することが「偽造」、真正に成立している文書について権限なく内容を変更することが「変造」と整理されます。
ただし、実際にどの犯罪が成立するかは、誰が作成・変更したのか、署名・押印の状態、行使する目的があったかなど、具体的な事情によって判断されます。
「契約内容がおかしい」「自分の持っている契約書と違う」というだけで、直ちに犯罪が成立すると断定できるわけではありません。
単純な記載ミス、訂正漏れ、別途作成された覚書や再契約などの可能性もあるため、まず資料を集めて事実関係を確認することが重要です。
偽造・変造された契約書を実際に使用した場合
さらに、偽造・変造された私文書を本物の文書として相手に示すなどした場合には、刑法第161条の「偽造私文書等行使」の問題となる可能性があります。
つまり、契約書を作成・変更したことだけではなく、それを実際の契約関係や金銭請求などに使用することで、さらに別の刑事上の問題が生じる可能性があるということです。
現在は「懲役」ではなく「拘禁刑」
古い法律解説などを見ると「懲役○年」と書かれていることがありますが、2025年6月1日から懲役と禁錮は廃止され、現在は「拘禁刑」に一本化されています。
刑法第159条では、有印私文書の偽造・変造などについて3月以上5年以下の拘禁刑が定められています。なお、文書の種類や具体的な行為によって扱いは異なります。
【実録】敷金2か月が10か月になっていた賃貸借契約書
それではここから、私が実際に経験した事件についてお話ししていきます。きっかけは、ある地主さんの相続案件を担当したことでした。
相続をきっかけに賃貸物件の管理を引き継ぐ
オーナー様は70代の女性で、ご主人を亡くされたことで相続が発生していました。私は相続に伴う不動産売却を担当していましたが、売却せずに残すことになったアパートや貸家についても、当社で管理を引き受けることになりました。
通常であれば賃貸管理部門へ引き継ぐところですが、ありがたいことにオーナー様から直接担当をお願いされ、そのまま私が窓口となりました。
今回問題となったのは、築30年以上の木造貸家です。そこには亡くなったご主人と以前から付き合いがあったという高齢の男性が入居していました。
家賃滞納などはなく、多少対応の難しいところはあるものの、それまでは大きな問題にはなっていなかったようです。ところが管理を引き継いで間もなく、その入居者から退去の申し出がありました。
大家さんの手元に契約書がない
退去立会いを行う以上、まず確認しておきたいのが賃貸借契約書です。そこでオーナー様へ、「契約書を確認させていただけますか?」とお願いしました。
しかし返ってきた答えは、「契約書は主人が管理していたので、どこにあるのか分からない」というものでした。
さらに詳しく聞いてみると、以前は別の不動産会社が管理していたものの、その会社は数年前に廃業しており、その後は契約更新なども特に行われていなかったということでした。
管理会社変更や相続によって賃貸物件を引き継ぐ場合、「当初の契約書がない」「更新契約書だけ見つからない」「敷金の金額が分からない」といったことは実際にあります。
管理開始時には、賃貸借契約書、更新書類、保証会社との契約資料、敷金等の入金記録などをできる限り回収・確認しておくことが重要です。
貸主側に契約書がない以上、まずは入居者が所有している契約書を確認するしかありません。そこで退去立会い当日、本人へ契約書の提示をお願いしました。
入居者が提示した「敷金60万円」の契約書
室内を確認すると、それなりに経年による汚れはありましたが、居住年数を考えれば特別ひどい状態ではありません。原状回復費用についても、それほど大きな請求にはならないだろうと考えていました。
そこで、「大家さんの手元に契約書がないため、契約書を見せていただけますか」とお願いすると、入居者はカバンから一枚の契約書を取り出しました。
当時よく使われていた市販の賃貸借契約書です。貸主欄には亡くなったご主人の署名・押印があり、借主欄にも入居者本人の署名・押印がありました。
ところが、内容を確認した私は思わず手が止まりました。
敷金「10か月分・60万円」
と書いてあったからです。当時の賃料から考えると、確かに10か月分に相当します。
しかし、居住用の貸家で敷金10か月という条件は、私の経験からするとかなり不自然に感じました。入居者は「大家さんから多めに敷金を入れてくれと言われて大変だったんだよ」という趣旨の説明をしていました。
ただ、この時点では私にも契約書が偽物であるという証拠はありません。そこで、その場で相手を問い詰めることはせず、契約書のコピーを取らせてもらい、いったん持ち帰ることにしました。
契約書に違和感があったとしても、証拠がない段階で「これは偽造ですね」と断定するのは危険です。
まず提示された資料を保存し、貸主側の契約資料、入出金履歴、旧管理会社や仲介会社の控えなどと照合して事実関係を確認します。
署名と印影にも違和感があった
オーナー様のところへ戻り、入居者から受け取った契約書のコピーを見せました。すると、それまで笑顔だったオーナー様の表情が一変しました。
私も気になっていたので、「これは本当にご主人の字でしょうか?」と確認してみました。
そこで、亡くなったご主人が書いた過去の郵便物などを探してもらい、契約書の署名と比較してみました。一見すると似ているのですが、よく見ると筆跡の雰囲気が違います。
さらに契約書に押されている印影についても、オーナー様には見覚えがないということでした。
もちろん、筆跡や印影だけを見て私たちが「偽造された契約書だ」と判断することはできません。それでも、敷金10か月という不自然な契約条件も含め、疑問はますます大きくなっていきました。
突破口は「旧管理会社」だった
問題は、どうやって本来の契約内容を確認するかです。契約当事者だったご主人は既に亡くなっており、オーナー様の手元にも契約書がありません。
そこで思い出したのが、以前この物件を管理していた不動産会社でした。その会社は既に廃業していましたが、私は以前その社長と取引をしたことがありました。
社長が亡くなられたことで会社を閉じたものの、店舗兼住宅だった建物には奥様が今も住んでいるかもしれません。そこで事情を説明するため、訪問してみることにしました。
幸い奥様はまだそこに住んでおり、話を聞いてくださいました。事情を説明すると、仕事をしていた当時の書類を保管しているとのことでした。
そこで、問題となっている貸家の賃貸借契約書の控えが残っていないか、探していただくことになりました。
スポンサーリンク
旧管理会社の契約書には「敷金2か月」と記載されていた
数日後、旧管理会社の奥様から連絡が入りました。
「契約書が見つかりましたよ」
すぐに内容を確認すると、そこにははっきりと「敷金2か月」と記載されていました。
しかも、物件、契約期間などの基本的な内容は、入居者が提示してきた契約書と一致しています。つまり、少なくとも私たちの手元には、「同じ物件・同じ契約について、敷金額が大きく異なる2種類の契約書」が存在することになりました。
ここでようやく、入居者へ具体的に確認できる材料が揃ったのです。
入居者へ確認してみると……
私は入居者へ電話をしました。ただし、いきなり「契約書を偽造しましたね」と責めるようなことはしません。
あくまで事実確認として、「以前見せていただいた契約書とは内容の違う契約書が見つかったのですが、これはどういうことでしょうか?」という聞き方をしました。
すると入居者からは、「あれは別の物件の契約書だったみたいだ」「自分も昨日気付いて連絡しようと思っていた」という趣旨の返答がありました。
しかし、提示された書面は物件や契約期間なども一致していましたので、少なくとも「なぜ敷金額だけが大きく異なっていたのか」という疑問は残ります。
最終的には、オーナー様がこれ以上争うことを望まなかったため、刑事・民事上の責任追及などには進みませんでした。旧管理会社に残っていた契約書などを踏まえ、敷金2か月分として退去精算を行い、退去手続きを完了しました。
この記事は、私が実際に経験した経緯をご紹介するものですが、当事者について刑事裁判等で「契約書を偽造した」と認定された事例ではありません。
そのため、本稿でも「偽造が確定した」という表現ではなく、契約書の偽造・変造が疑われた事例としてご紹介しています。
契約書の偽造・改ざんが疑われた場合の対応
今回の経験から、賃貸借契約書の内容に疑問が生じた場合には、相手を問い詰める前に資料を集め、順序立てて確認していくことが重要だと考えています。
1.その場で相手を犯人扱いしない
これが最も重要です。貸主が持っている契約書と借主が持っている契約書の内容が違っていたとしても、単純な記載ミス、訂正漏れ、再契約、覚書の存在など、別の事情がある可能性があります。
最初から「偽造だ」と決めつけるのではなく、まずは「なぜ内容が違うのか」という事実関係を確認します。
2.双方の契約書を確認・保存する
可能であれば原本を確認し、コピーやPDFなどの形で資料を保存します。契約日、物件名、貸主・借主名、署名、押印、契約期間、賃料、敷金、特約などを一つずつ比較します。
契約書の一部分だけを見るのではなく、書式、筆跡、訂正箇所、押印位置なども含めて全体を確認しておくと、その後の調査がしやすくなります。
3.旧管理会社・仲介会社の控えを探す
今回の事件を解決するうえで最大の突破口となったのが、旧管理会社に残されていた契約書でした。
貸主と借主の双方で言い分が食い違った場合でも、契約時に関与した管理会社や仲介会社に控えが残っているケースがあります。管理会社を変更した物件では、以前の管理会社や仲介会社に資料が残っていないか確認する価値があります。
4.敷金・礼金などの入金記録を確認する
例えば「敷金60万円を預けた」と主張されているのであれば、本来はその60万円が貸主側などへ支払われた記録があるはずです。
銀行振込の履歴、領収書、管理会社の送金明細、会計帳簿なども重要な確認材料になります。契約書の記載だけを見るのではなく、実際のお金の動きと照合することが重要です。
5.更新契約書や覚書も確認する
当初契約の後に条件変更が行われている可能性もあります。更新契約書や覚書、賃料改定通知、敷金の追加預託に関する書類などが存在していないかも確認します。
一枚の契約書だけを見て判断すると、本来有効に変更されていた条件を見落としてしまう可能性があります。
6.重大な疑いがある場合は専門家へ相談する
契約書の偽造・変造が疑われ、敷金返還などの金銭請求や契約上の権利関係に発展している場合には、管理会社だけで最終的な法的判断を行うべきではありません。
必要に応じて弁護士などの専門家へ相談し、事案によっては警察への相談を検討することになります。管理会社の役割は、まず事実関係と資料を整理し、貸主が適切に判断できる状態を作ることです。
契約書の内容に疑問が生じたときは、一枚の書面だけで結論を出さないことが大切です。
- 貸主側の契約書
- 借主側の契約書
- 旧管理会社・仲介会社の控え
- 敷金等の入出金記録
- 更新契約書・覚書
- 当時のメールや手紙などの記録
これらを突き合わせることで、事実関係が見えてくることがあります。
この事件で痛感した「契約書保存」の重要性
今回の事件で私が最も強く感じたのは、契約書を保存しておくことの重要性です。
もし旧管理会社が契約書の控えを残していなかったら、どうなっていたでしょうか。貸主側には契約書がなく、契約を締結したご主人は既に亡くなっています。
その一方で、借主は「敷金60万円」と書かれた契約書を持っている。こうなれば、非常に厄介な争いになっていた可能性があります。
- 当初の賃貸借契約書
- 更新契約書・更新合意書
- 重要事項説明書
- 特約・覚書
- 敷金等の入金記録
- 保証会社との契約資料
- 入居中の重要な交渉記録
- 賃料改定など条件変更に関する記録
- 退去届・解約通知
- 退去立会い時の確認書や写真
現在では、紙だけでなくPDFなどで電子保存しておくことも容易になりました。特に管理会社を変更する場合や、相続で賃貸物件を引き継ぐ場合には、契約関係資料を一式確認しておくことをおすすめします。
管理会社を変更するときは、「現在の入居者一覧」だけでは十分ではありません。各住戸について、契約書、更新履歴、敷金、保証会社、滞納履歴、特約などまで引き継げるかどうかで、その後の管理のしやすさが大きく変わります。
スポンサーリンク
まとめ|契約書に違和感を覚えたら、まず証拠を集める
今回は、私が実際に経験した賃貸借契約書を巡るトラブルをご紹介しました。入居者から提示された契約書には「敷金10か月・60万円」と記載されていましたが、旧管理会社から発見された契約書では「敷金2か月」となっていました。
この事件を解決できた最大のポイントは、契約書を見たその場で相手を問い詰めるのではなく、まず契約書の控えを探し、事実関係を確認したことだと思っています。
賃貸管理では、「貸主と借主の言っていることが違う」「昔の経緯が分からない」という場面が少なくありません。そんなときこそ担当者の勘だけで判断するのではなく、契約書、入金履歴、更新書類、メール、過去の管理記録などを一つずつ確認していくことが大切です。
そして今回の経験は、管理会社にとって「書類を残しておくことも立派な管理業務の一つである」と改めて教えてくれた事件でもありました。
契約書一枚、入金記録一つが、数十万円、時にはそれ以上のトラブルを防ぐ重要な資料になることもあるのです。







